往きて迷いし物語

もるあきがトールキン教授やPJ監督に翻弄されるブログ・『この世界の片隅に』備忘録

なぜゴクリ(ゴラム)を好きなのか考えてみました

トールキン Advent Calendar 2016』に参加しようと意気込んだものの、まとまらなくてグダグダしてしまっていた記事です。素敵な企画をありがとうございます。
http://www.adventar.org/calendars/1583/

"The Hobbit Facsimile First Edition"(ホビットの初版本の復刻版、暗闇のなぞなぞ勝負の筋が違う初期版)のネタバレがあります。


 小説『ホビットの冒険』、同じく『指輪物語』、映画『ロード・オブ・ザ・リング』三部作とトールキン坂を登ってきた私の一番好きなキャラクターはギムリですが、ゴクリもかなり好きです。
 ホビットを読んだ時はこれ(!)が指輪物語にまで出てくるとは思っていなくて、なかなか気持ち悪い生き物だなあ、と思っていたように記憶しています。エルフや神秘的な存在から与えられるのではなく、こういう生き物がずっと持っていた指輪を拾って我が物にするシチュエーション自体薄気味悪い心地もしていたかもしれません。その後指輪物語に出てきた時、フロドとサムの道連れとして登場した時には不穏な予感しかなく、あのただでさえ苦痛の多いフロドの旅路にあってゴクリの存在にはうんざりしましたし道案内が必要だから消えていなくなってもらっては困るしで、あの悲しい結末にはほっと安堵さえしました。小説を読んでいた当時は今よりずっとネガティブな精神状態だったもので、あそこまで指輪に囚われてしまったゴクリが救われるにはああいう形での解放以外もうどんな方法もないように思えたからです。その後、ガンダルフはゴクリをも助けようとしていた、という指摘をインターネットで拝見し、はっとしたものの、ガンダルフ特に白い方は俯瞰でものを見られる存在だからなあ…と片付け、最初の読書後の私自身のゴクリに対する感情は同情も少しはありつつ、嫌悪がまさっていたように思います。

 好きだと気づいたきっかけは三部作映画の二作目『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』のエンディングテーマ、エミリアナ・トリーニ氏が歌う『ゴラム・ソング』でした。作曲は劇中音楽を手がけたハワード・ショア氏、作詞は脚本に携わったフラン・ウォルシュ氏という隙のない布陣。共同脚本のフィリッパ・ボウエン氏いわく、フランは「曲を聞いたら自然に歌詞が浮かんできた」と言っていたと。アイスランド系のトリーニを起用したのは英語とは異なるアクセントがゴラム(ゴクリ)らしさを表現するだろうことを期待した、とはショア氏の言葉です。(『二つの塔』エクステンデッド版特典映像「音と音楽」より)そしてあの美しく物悲しい歌が映画の最後に流れることになったのです。
 『二つの塔』はレンタルかNHKBSで観たのだったかな、面白いけれどとにかく長くって、内容もどんどん暗くなっていって(救いが全くないのではなかったけれども)ああやっと終わる…と、くたびれていたところに訳詞の字幕が飛び込んできて、最初は「これは誰の気持ちを歌ったのだろう…?」と訝しみ興味をひきつけられ、ハッとゴラム(ゴクリ)の歌であることに気づき、歌詞に紡がれたゴラムの深い悲しみと渇望に触れて、胸が苦しくなるほどでした。それ以来ゴラム(ゴクリ)のことが好きです。

 第一印象や描写の表面的な部分から、自分を取って食おうとしていたゴクリに同情するのはビルボがあんまり心優しすぎると思いましたし、ガンダルフがゴクリを憐れな奴だと言うのも灰色の彼でさえ並の人間よりずっと慈悲深くて、フロドもとびきり心が広く、サムだってずいぶん寛大に見える…なんて理由をつけて自分がゴクリ(ゴラム)を好きになるのを拒んでいたのですが、あの悲しげな歌声と歌詞が切なさと深い悲しみを訴えかけ私の中の「情け」を引きずり出してしまったのです。自分はそんなに立派でないから情け深い存在にはなれない、と思い込んでいた節があるのですが、歌をきっかけに、別に立派でなくても誰かや何かを憐れむ気持ちは持っていいんだ、と。むしろ何かのきっかけでゴクリのようにこそこそとしたずるい存在になるかもしれない自分だからこそ親近感を持って愛せる道を照らしてもらったような気がします。

 それより前からアンディ・サーキスの素晴らしい演技や、まるで本当に生きて存在しているものを撮影したかのようなCG処理の巧みな演出にもだいぶやられてはいたんですが、『ゴラム・ソング』がなかったら、私は長い間ゴラムのことを内心ではかわいく思い、自分に通じるものを感じながらも嫌悪しなくてはならないモヤモヤしたおかしな状態のままだったでしょうね。フロドにしぶしぶ従ってみせながら指輪を取ることしか考えていないゴラム(ゴクリ)に愛情を抱くことにためらっていた私自身が映画と音楽によって解放され、フロドやサムを応援し好きでいながらゴラム(ゴクリ)を可哀想だと思っていいんだ…愛しいと思っていいんだ…と、物語の複数の登場人物たちを同時に様々な感情から見ることができるようになったのです。ホビット庄から出たことのなかったサムがやがて灰色港から出発する船を見届けて帰って来たかのような飛躍…とまではいかないのですが、少しだけその翼のはじっこにつかまらせてもらって前より少し高いところから見られるようになったとでも言いましょうか。
 真に面白い物語というのはすじだけを追っても面白く、細部の様々な仕掛けに気がつくとなお面白く、視点を変えて楽しむこともできる、というのをここ何年か映画を観てたびたび実感しているのですが、『ホビットの冒険』『指輪物語』もまさにそのような作品で、その映像化作品である『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズが私の目を開いてくれたのは当然の結果とは言え、幸いなことでした。

 今年は"The Hobbit Facsimile First Edition"(ホビットの初版本の復刻版、暗闇のなぞなぞ勝負の筋が違う初期版)のなぞなぞの章を読みました。負けたゴクリが贈り物として指輪をくれようとしたけれどもその前に洞窟で落としたのをビルボが拾っていたので贈り物のかわりに洞窟から出る道を教えてくれる、という話だったのですが、ゴクリがバギンズを恨んだり盗人と罵ったりしないものだからビルボがよけい悪く見えるという…ビルボの暗黒面の描写はとても好きなんですけれども、反動でゴクリが妙に公正な――独自の判断基準で動いているけれど誰かに対して恨みや怒りを抱いていないキャラになってしまっていてちょっとつまらない感じなんです。小説を初めに読んだ頃ならこちらのいいやつキャラのゴクリの方が感情移入はしやすかったと思うんです。しかしそうするとなんで指輪棄却の旅に同行するのかの動機が薄くなる上に終盤の展開が今以上に割り切れない辛いものになってしまいます…このゴクリなら道を誤らないかもしれない…。しかしこそこそした気持ち悪いゴクリの方が物語が面白くなるし、指輪の恐ろしさを最後の最後に実感できる効果もありますし、ビルボの感じた「情け」を味わえるので良いと思いました。なんだかんだ最初に触れたものを最良と思ってしまいがちではありますが。

 後に『シルマリルの物語』の読書を薦められた際に、あの世界では神々やエルフが奏でる音楽や言葉に特別な力があるという設定を教えられて、それはすごくファンタジーだな…、と思っていたのですが、何のことはない、私も歌に魅了されて中つ国への道を踏み出していたのです。映画のスタッフ陣がトールキン世界のそんなところまで再現していたとはまさか思いもよりませんでした、というオチにて、しめさせていだきます。
 読んでいただいてありがとうございました!