往きて迷いし物語

もるあきがトールキン教授やPJ監督に翻弄されるブログ・『この世界の片隅に』備忘録

モヤモヤの氷解『この世界の片隅に』

 『この世界の片隅に』記事まとめが膨大になりスマホアプリから編集しようとすると落ちるようになってからひと月以上が経とうとしています。映画の封切から二ヶ月にもなるのにまだ茨木(大阪府北部)でも上映しているというのに驚いています。日本語字幕付き上映を観に行った時は一ヶ月もつかどうか危ぶんでいたのですが。私も無事に4回目を観に行くことができましたので、映画について思うところなどぼちぼち書いていこうかと思います。ネタバレしますので、未見の方はお気を付けください。


 片渕監督のインタビューにより、映画を4度ほど観たものの演出意図がわからなかった箇所の謎がとけました。監督もスタッフもここは特段謎のつもりもなく作ったのでしょうけど、19年3月の衣替えの、映画オリジナルというか原作のいくつかの記述を拾って一連のエピソードに仕立て直したシーンです。直前には「とんとんとんからりんの隣組」がBGMの配給~天秤棒~常会のエピソードがあります。
 箪笥からモダンな洋装を取り出して「お姉さんモガだったんですねえ」(以下、台詞は絵コンテ集より)と言うすずさんへ、サンさんが娘である径子さんの若い頃の様子、嫁ぐまでを語ります。原作の漫画では作中登場人物の誰でもない、いわゆる神視点での説明……が時々ありますが、映画ではすずさんとその周辺を描くようにしてありますので、サンさんに語らせる改変自体は良いのです。径子さんの若かりし頃の洋装は物置へしまわれていまう運命にあり、このあと、実家へ戻ってきた径子さんがすずさんを「まったくいつまでも娘みたあなそがいな洋装で」、嫁いできて一ヶ月以上経つのにいつまでも未婚女性のような服装をしているのはどういうことか? といった意図で叱るシーンにも対応しています。原作同様この台詞で当時の若い女性の洋装=未婚女性の服装という共通認識があったことがわかり、映画オリジナルの出来事が原作にもあったやり取りへの伏線になってるんですね。冒頭の中島本町商店街で布地を品定めする母子、着物を仕立ててくれた祖母、嫁入りの着物をかぶるすずさん、モンペを仕立てるすずさん、劇中でもすずさんたちの着るものは少しずつ変化していきます。すみちゃんが持ってきてくれた純綿を径子さんが仕立て直し……、食料と交換される衣類、「晴美の服じゃこまいかね」を経てエンディングロールの「たんぽぽ」をバックに新しい服が仕立てられる流れを補強してもいます。
 問題はサンさんがまだ「径子はああいう子じゃけえ仕事も自分で決めて婿さんも自分で見つけて……」まで話したところだというのに、すずさんが「さあーほしたらうちも負けんように頑張って働かんと」と腕まくりして画面の外(サンさんの視界の外)へ出て行ってしまうシーンです。原作のすずさんは自分の考えに入り込んでしまって人の話を聞いてないとか、くどくどとお説教されそうになって焦って話を遮ったりはするものの、話の途中で消えてしまうことはなかったように思います。なのでこのシーンを初めて見たときは「私の知らないすずさんだな……!?」とひどく動揺したのです。すずさんが嫁ぎ先やご近所に受け入れてもらいたい気持ちからもろもろの仕事をがんばっているのは原作でもその印象が、っていうかそれこそ直前の「隣組」のエピソードから理解できるのですが、アニメのこのシーンでは必要以上にすずさんを原作より可愛らしく動かしている印象を受けて、しかも「隣組」と重ねてまで描いた意図がよくわからなかったのです。監督はすずさんのような人の上に爆弾が落ちてくることをかわいそうでたまらない、と行っていたけれど、じゃあこの演出が監督がすずさんを好きすぎるから、観客にもすずさんを愛してもらいたいから、それだけの気持ちでの変更なのかな? と考えてみても腑に落ちないんですね。多少はその色もあると思いますよ。原作のすずさんの、こうの史代先生の描く女性キャラクターに共通したある瞬間に見せる背筋が凍るような感じがアニメではかなり減らされています。でもこのシーンのすずさんが、観客の受け入れやすさのためだけに、何だかおざなりにも見えるキャラづけをされてしまったと考えると、キャラクターがお箸を手に取る所作の一つひとつまで演出したスタッフがそんな暴走をするかな、という違和感もあります。動機が萌えさせるため、自分の理想のすずさんを描きたいだけならそれはそれでもうちょっと萌えを突き詰めて描くだろ、と。うーん、ちょっと監督やスタッフの肩を持ちすぎかもしれないですが、割り切れなくていまいち引っかかるシーンだったのです。監督が映画には色々な要素や知見を仕込んでいるけれどフックを作ってはいないというようなことを言っていたので、余計に納得いかないものを感じていました。
 それがH.イワシタ先生、近藤ようこ先生のツイート、北陸中日新聞の記事で氷解しました。

H.イワシタが静かにやって来る ‏@iwa_jose · 1月13日
ぼくはあの部分の映画での改変は、たしかに分かりにくくなってるというのはあるけど、わりと肯定的。もちろん、すずは無垢な被害者ではあり得なくて、それはビラをくしゃくしゃしながら「これがうちらの戦いですけえ」と言うシーンに明らかで、あそこを「戦争VS日常」の戦いと解してる人いそうで心配

twitter.com

近藤ようこ ‏@suikyokitan · 1月13日
うん、「この世界の片隅に」は無垢な被害者じゃなくて、無知で無自覚な被害者でもあり加害者でもある庶民を描いているのだ。>RT

twitter.com


【映画】この世界の片隅に 片渕須直監督に聞く 2017年1月14日 北陸中日新聞
www.chunichi.co.jp

「僕らは戦後になって、戦争はやっぱりいけないとある種の正義で語れる。けれど当時の多くの人は、気持ちのやり場がないからこそ、「これがうちの戦いですけ」と、日常生活を続けることで日々を耐えていた。そうやっていつの間にか戦争に加担してしまっていたことに、玉音放送を聞いた直後、すずさんは恥ずかしかったんじゃないでしょうか」

 前半ですずさんが「いいお嫁さん」の振る舞いをしていたことが、「戦争に乗っかる」ことへの前フリ、伏線だったんですね。わかっていたはずなのに、見落としていました。あのシーンのすずさんは明らかに演技過剰でした。すずさんのように自分の本当の望みとは何なのか自分とは何なのかわからないまま生きている人はストレスで脱毛症になっていてもニコニコ笑いながら毎日の食事を作り続けてしまいます。愚痴を吐く相手もおらず、その発想さえなかったかもしれない。戦時中、若い男性が減っていく世の中でお嫁入りできたことは幸せなのだと誰かから思い込まされたのかもしれないですね。(※周作さんと結婚したすずさんが不幸だという意味ではないですよ。)怪我をしていろいろ失った身に「よかった」「よかった」と言われたように。そんなすずさんの浮き足立った「愛国の徒」気取りの振る舞いのきっかけが8月6日ではないかと思うとゾッとします。ろくにわからないなりに恐ろしく酷いことをされたことはわかっていた、しかし終戦となり旗を見てしまった、見てしまったら思いを寄せざるを得ない、何も知らないまま死にたかった……。
 原作にもあるそれらを映画では拡張し、または受け入れやすいように表現していたのでした。私自身も戦中の搾取と現代の搾取について知れば知るほど生きるのがしんどくなるので、なるべく早いうちにきちんと考えられる精神状態になればいいなあと思います。

 でもやっぱり声を抜きにしても映画のすずさんの萌え度は上がってる気がする。肌の色かなあ……。


2017年8月16日追記
◇「この世界の片隅に」を見て、戦争や食料難より「嫁ぎ先が、いい人ばかり」な事に目が行く方もいる…という話 - Togetterまとめ
https://togetter.com/li/1139720 @togetter_jpから
 念のため、それだから映画はダメなんだと声高に断じているようなまとめではありません。原作読んだだけではわからなかったことが映画をきっかけにいろいろな意見を見聞きできるようになったこと、原作を読む人が増えたことは私にとって喜びです。で、映画だけ観てモヤモヤしてる人には原作や『平凡倶楽部』読んでみてほしいですね。私個人は映画でもう少しすずさんの葛藤を描写してほしかったな、という意見です。

 補足
 この記事を頭から読んでもらったらわかると思うんですけど、私は心中の可能性についてはこれっぽっちも思い至らなかったので、この指摘はとてもありがたかったです。あと映画でモヤモヤしてる人は原作読んでください。